【FIREの日常】#41 京都旅行

先日、兵庫県行政書士会の淡路支部で懇親旅行に行ってきました。京都へはお墓参りにいった程度で、ここ10年以上は遊びには行っておらず、街中を散策するのはかなり久しぶりです。初夏の京都に色々と感じたことがあったので、今回はその辺りを書いていきます。

この旅行は、本来2月に予定されていたものですが、コロナ患者が増えて蔓延防止措置などが発令された時期で、やむを得ず延期されたイベントでした。私は、昨年の11月に会員登録したので、他の先生方に会うのは4月の総会以来2度目でした。『この新参者が!』とか『同業者はこれ以上要らんのじゃ!』などと白い目で見られながらの旅行になるかもと心配しながら、当日は朝の7時に出発地点となる陸の港西淡バス停に向かいましたが、結果的には終始和気藹々とした1日で杞憂に終わりました。同業者の旅行って、こんな感じなんですね。。。

旅行は、南あわじから5名、洲本で2名の計7名が乗車して、淡路島⇒宝塚北SA⇒平安神宮⇒昼食(がんこ高瀬川二条店)⇒ 鉄道博物館 ⇒ 鹿苑寺(金閣寺)⇒淡路島、を貸し切りバスで周遊するというコンパクトな旅行で、恐らく初めての平安神宮や鉄道博物館など、とても楽しむことができました。

そして、今回の旅行で驚いたのが観光客の多さでした。そりゃ、コロナ前までとはいきませんが、それでもここ数年見ることのできなかった活気です。宝塚北SAでは9時前にもかかわらず、多くの人がお土産屋でぶらぶらしていたり、平安神宮ではバス7台 200人規模の謎の団体旅行に会ったり、金閣寺では中学生と思しき修学旅行生が賑やかに旅行を楽しんでいました。

冒頭で京都に遊びに行ったのはかなり久しぶりだと書きましたが、兵庫県の西宮に住んでいた私は小中高と遠足などで何度も京都を訪れ、サラリーマン時代も出張で行く都度、観光客であふれかえっている街中にうんざりしていました。そのため、京都へは遊びにいくもんじゃない、と勝手に決めつけていましたが、やっぱり京都には観光客が似合うし、観光客の居ない京都は京都じゃないんだとうなぁ、なんて改めて感じました。

そのついでに、感じたことをもう一つ。

私はサラリーマン時代に自動車修理工場などの保険代理店が掲げている看板を会社合併に伴って架け替えるというプロジェクトに携わったことがありました。その時に、地域によって景観を損ねないように看板の色を制限されることがある(景観条例)のを知り、そんな見方でバスの中から京都の看板を眺めていました。すると、マクドナルドは一般的な赤色の下地に黄色の「M」がグレーの下地に変わっていたり、ファミリーマートは鮮やかなグリーンが渋いモスグリーンと濃紺に変わっていたり、とレアな配色の看板にお目にかかれました。

そんな中、違和感を覚えたのがアルファベットで描かれた看板の多さでした。京都の古き良き風景を守るために看板の色や建物の高さを制限してまで努力している街並みなのに、、、アルファベットが浮いて見えるんです。特に「SuperMarket 〇〇」や「Pachinko Slot △△」などは、残念でなりません。さらに言うと、看板が地味な配色だけに筆記体や斜体の英字が余計に目立つんです。

そこに住んでいる人たちの生活には欠かせない店舗なんでしょうが、観光客にとっては非日常を日常に引き戻すなんとも味気無い施設に見えてしまいます。

観光地にありがちな観光客への非日常体験の提供と地域住民の日常の確保。頭でっかちになると、折角の楽しい旅行もこんな偏屈な見方をしてしまうんだぁ、と少しだけ自己嫌悪になった京都旅行でした。