【FIREの日常】#52 教育コスト

先日、近所の寺社でちょっとしたお祭りがあり、地元の小学生(恐らく、1年生や2年生)が阿波おどりを踊って練り歩いていました。この地域は江戸時代まで阿波藩、今の徳島県に所属しており、明治の廃藩置県で兵庫県に移ったことを考えると、徳島と同じように阿波おどりを踊る風習が今でも残っているようです。私は、知人に呼ばれて交通整理を手伝ったんですが、今回はその時に考えていたことを書いてみます。

以前の日記で「幸福の資本論」についての感想を書きましたが、結論から言うと都会と地方で子供たちにかける教育コストの投資先が、この幸福の資本論に当てはめると理解が進むように感じたわけです。

幸福の資本論は、幸福に生きるための土台(インフラ)を「金融資本」「人的資本」「社会資本」の3つに分解し、すべての資本を持たない人を不幸な人としています。例えば、地方から都会に出てきた若者で、貯金などの金融資本はゼロで、仕事も不安定な派遣社員やアルバイトの場合は人的資本(自分の労働力をお金・給料に変える力)も脆弱で、周囲に学生時代のような地元の友達もいないので社会資本も無い、、、確かに幸せとは程遠いように感じます。

今回の阿波おどり、小学生が20人ほど集まって1か月以上練習していたようで、幼いながらもしっかりと阿波おどりになっています。『らっせら~、らっせら~』の掛け声とともに中腰の姿勢で両腕を頭の上でくねくねさせながら踊る様は見ていても楽しいものです。

で、子供たちが道路に出るのを気にしながら車が来たら徐行を促したりと、普通に交通整理をしながら踊りの列を眺めていると、参加している大人の多さに気づきました。笛や太鼓、銅鑼などの楽器演奏、子供たちの先頭で目的地のお寺まで先導する人、踊りの様子を見ながら遅れている子に声をかける人、私みたいな交通整理する人、休憩時間にかき氷を振る舞う人、、、     参加した子供の親以外に10人以上の大人がイベントに関わっていました。

正直、私には親や学校の先生以外の大人が自分のために無償で何かをしてくれた、という記憶があまりなく、しいて挙げるとすると父の職場の人が家に来た時に遊んでくれたことくらいでしょうか。でも、今回のように地域ぐるみで子供たちに踊りを教えたり、当日も一所懸命に主役である子供たちを陰で支えている大人たちの姿を見て、これも子供に対する教育投資なんじゃないかと思いました。

私が子供だった昭和50年代ごろから、子供の教育は「人的資本」を築くためにコストをかけてきました。学校が終わってから塾に通い、名門私立中学・高校を受験し、偏差値の高い大学に入って、一流と呼ばれる大企業に就職する、、、これが「勝ち組」になるための最適なルートで、コストは高い給料を貰える=人的資本を充実させるために費やしていたように思います。

でも、今回の阿波おどりの子供たちにかけたコスト(大人たちの時間)は人的資本を増やすためではなく、社会資本を形成するためにかけたコストでした。同級生や友達と一緒に浴衣姿で通りを踊り歩く。。。次の日の学校でいい会話のネタになるし、何十年かしたあとに同級生が集まった時の酒の肴にもなるでしょう。

都会と比較すると田舎暮らしでは高い給料=人的資本の充実は望めないかもしれませんが、社会資本は都会よりも充実しているように感じます。そして、地元に残って生活していく子供たちのために、地域が一丸となって社会資本の充実に取り組んでいる。そして、社会資本が充実していれば人的資本や金融資本が少なくても幸福でいられる。

これはこれでとても素晴らしいことですよね。