【FIREの日常】#50 故人を偲んで

これまで、この日記では過去の思い出を書くのは避けてきました。思い出話は、その出来事や時間を共有した人たちにとってはとても面白いし楽しい話ですが、知らない人にとってはどうでもいい話だと思っているからです。ただ今回は中学時代の恩師が亡くなったという連絡を受け、私が出来ることは当時を思い出すことくらいかなぁ、、、ってことで35年前のことを少しだけ書いていきます。

先日亡くなったのは所属していた吹奏楽部の顧問でした。ちなみに、高校では帰宅部、大学では体育会系アメフト部と、まったく節操のない部活遍歴を送ってきました(>_<)

その顧問は、私が在学中だったかその少し前に結婚したと記憶しているので、恐らく当時30歳前後~30後半くらいの音楽教師でした。中学時代の部活動って決まった休みがないので、その顧問の顔は3年間ほぼ毎日見ていたんじゃないかと思いますが、卒業後は20歳の頃に一度部活の同窓会だったか先生の転勤祝いだったかで集まった時に会って以来、連絡を取ることもありませんでした。

私の通っていた中学校はお世辞にも上品だったとは言えない、当時の典型的な公立中学校でした。在学中に先輩が薬物使用で亡くなったり、卒業の翌年くらいに教師の体罰が報道されたり、尾崎豊よろしく校舎の窓を壊して回る輩がいたりと、なかなかなものでした。

そんな学校で文科系クラブに所属している生徒は格好のいじめ対象になりそうなもんですが、私の場合は当時から身体が大きくて空手の有段者でもあったことから、思い出したくない出来事も人物もいません。いわゆる不良グループとも仲がよく、勉強もまあまあできたので受験組ともそれなりに付き合っていました。もちろん文科系生徒とも。

なので、教師たちからすると「面倒な生徒」だったように思います。三者面談では担任から『あんな子たちとは付き合うな』などと釘を刺されたり、『とんびが鷹を産んだんですね』などと褒めているのかどうかも分からないことを言われたりと、今から考えると「分類しづらい生徒」だったんだと思います。

そんな生徒にも教師にとっても厳しい環境だった中学校でしたが、吹奏楽部の顧問は担当する学年が違ったので音楽の授業を教わったことも、もちろん担任であったこともありません。  部活だけの接点しかありませんでしたが、叱責を受けた記憶も手放しで褒められた記憶もありません。あるのは音楽室のピアノの前に置かれた高さ20cmくらい指揮台の上で熱心に指揮棒を振っている姿で、時折西日が射して白っぽくぼんやりと見えたことです。それでも私の中の「恩師」は、この顧問しか居ないように思います。

私が20歳くらいの頃に開催された同窓会だったか転勤祝いでお会いした時に、

『今、何してる?』と尋ねられ、

『アメフトしてます!』と答えたところ、

『やっと落ち着くところに落ち着いたな。その方が似合ってる』

と言われました。やはり当時から私の居場所に違和感を持っていたんでしょう。それは私自身も薄っすらと感じていたことだったので、笑顔で

『やっぱりそうですか、ありがとうございます』と言いました。

顧問がその後どこの職場でどんな仕事をされていたのかは分かりませんが、恐らく音楽教師として定年まで勤めあげ、定年後はのんびりとクラッシック音楽でも聴いたり、孫にピアノでも教えながら過ごしていたんじゃないかと想像しています。

「一生を音楽とともに過ごす」

言葉にすると格好いい生き方ですね。

ご冥福をお祈りいたします。