雑感:不毛な自己分析

最近、ありがたい話でリモートでも出来る仕事をいただくことがありました。今回は、その仕事を通じて感じたことを書いていきます。

ここ数年で定着したリモートワークですが、淡路島で生活する私にもその恩恵がまわってきました。FIREな生活を送っているので、積極的に仕事を探しているわけではないですが、知人やご近所さんなどからお声がかかると、都合がつく限りお手伝いさせていただくようにしています。今回は勤め人時代の取引先の方から企業の研修講師の依頼をいただきました。

私が受講していた頃の研修は、1日中講師の話を聞く座学がメインでしたが、今はアクションラーニングと呼ばれる「手と頭を動かす研修」が主流になっています。と言うことで、今回は私が一方的に話をする講義スタイルではなく、受講者が作ったビジネスプランに対してロールプレイング形式で質問したりコメントしたりする役回りです。一応、中小企業診断士の資格も持っているので、これくらいなら自分でもお役に立てるかと思いお引き受けしました。

受講者が限られた時間の中で考えたプランに講師の立場で良かった点や改善した方がいい点を、あ~でもない、こ~でもない、とコメントするのですが、やってみると何となく違和感が残るのです。サイズの違う服を着せられたと言うか、知らない人の家の居間にいると言うか、なんかいつもの自分と違うような気がして落ち着かないんです。

わざわざお声をかけていただいたので、精一杯与えられた役割をまっとうして、受講者の方々にもそれないのアドバイスができたとは思うのですが、気になったのは、私は一体何に違和感を感じたのだろうか?これをはっきりさせたいと思い、久しぶりに散歩に出かけました。

そもそも、何に違和感を感じたのか。まず、スーツにネクタイ姿でパソコンの前に座り若い受講者の皆さんにメントしている自分と、つなぎの作業着を着て畑作業やDIY、ピザ窯作りをしている普段の自分とのギャップがあまりにも大きいから?、という仮説を立ててみました。でも、このような仕事は今回が初めてでもなく、少し違うようです。次に、リモートとリアルの差に違和感を感じたのかとも思いましたが、リモートでも受講者の表情や戸惑う様子などリアクションもしっかりと伝わっており、これも違うようです。

で、結局思い至ったのが、自分の感情には偏りがあり、受講者へのコメントを通じてその偏りに気付かされてしまったのでは、、、と言うものです。どうやら、私は「楽しい」とか「悲しい」は人並み以上に感じるのですが、「嬉しい」や「寂しい」には反応が鈍いみたいです。例えば、プレゼントを贈るという行為は、もらった相手の喜ぶ反応を見て自分も「嬉しくなる」ものだと思いますが、私の場合はプレゼントを選んで購入するという行為自体が楽しみで、相手の反応はあまり気になりません。また、人一倍涙腺がゆるいと自覚しており、通勤電車で小説を読みながら何度も恥ずかしい思いもしましたが、一方で、生活音が全くしない静かな田舎で一人暮らしをしていても寂しいと感じることはありません。

このような感情の偏りは私だけが特別という訳でもないのかもしれませんが、感情の受信感度に偏りがあることに気が付くと、研修中の違和感の正体が何となく見えてきました。第三者的な自分が研修中にコメントしている自分を斜め上から見ながら「こんなことアドバイスされて嬉しいのかなぁ?」「本当に喜んでもらってる?」と問いかけ、「そもそも嬉しいってよく分からない、、、」と勝手に議論を終えるようなカオスな状態です。

まぁ、もともと感情の起伏は少ない方で、常に冷静で落ち着いていると言われてきたので、今回の自己分析を自己変革に繋げたいとか新しい自分に変わりたい、などとは全く思いませんが、答えのないことに頭を使って考えをめぐらすことは私の楽しみの一つです。

自己改革には役に立たない不毛な脳内討論会も、風が強くて寒い冬の散歩にはうってつけのネタでした。